伝統の灯は絶やさない
若者たちによって受け継がれた「獅子舞」
津軽地方の獅子舞・獅子踊は、五穀豊穣を祈り、病気や厄を祓い、また、お盆の時期に死者の霊を祀るなど、古来より津軽の人々の暮らしの節目に寄り添ってきた。
慶長年間(1596~1614)に、現在の弘前市松森町に住んでいた京都の猫右衛門という人が、流行病に苦しむ住民のために、先祖伝来の獅子舞の巻物をもとに舞を踊り、病を追い払ったのが津軽獅子舞の始まりだという。
4代藩主・信政が召し抱えた御用学者・野本道元は、巻物に記されていた経文を平易な言葉に直し、津軽でも広く踊れるように尽力。信政は、天和2(1682)年、弘前八幡宮祭礼の際に獅子舞を加え、ご高覧したという記録が残されている。
「熊獅子」と「鹿獅子」の2つがある
獅子舞(踊)には、「熊獅子」と「鹿獅子」の2つがあるという。
おもに津軽の山間部に分布する熊獅子は、角が短角で舞うように踊るのに対し、平野部の新田地帯に分布する鹿獅子は、角が枝分かれし、跳躍しながら軽快に踊るのが特徴だという。
鶴田町西中野地区には、三百数十年前から、保存会により、鹿獅子に分類される獅子舞が継承されてきた。
しかし、メンバーの高齢化などにより、伝承の灯りが消えそうな危機にさらされていた。
そこで、昭和52年、保存会メンバーであった長内英五郎さんを指導者に迎え、木筒小学校の児童らによる伝承活動がスタート。
昭和61年、小学校統合後は「富士見小学校獅子舞」という名称で、学校教育の一環として受け継がれている
立ち上がったのは
20代後半から30代前半の町内の若者たち
長内さんは指導にあたるだけでなく、自ら子どもたちの体に合わせて小ぶりで軽い獅子頭を制作するなど、さまざまな面から地域の子どもたちを支えてきた。
そんな長内さんが体力の限界により指導が困難になったと聞き、立ち上がったのが、かつて長内さんから指導を受けた子どもたち。
当時、20代後半から30代前半の町内の若者たちだった。
「長内さんの想いをつなぎ、伝統ある鶴田の獅子舞を未来に残そう」と、「富士見小学校獅子舞応援隊」を設立。
そうした先輩たちの姿に触発され、地域の中高生もお囃子に加わるようになった。
平成15年には、名称を「鶴田町西中野組獅子舞保存会」に変更し、富士見小学校児童への指導、結婚式や神社の大祭などで、積極的に活動を続けている。
「津軽富士見湖桜まつり」などの
イベントで見ることができる
13の舞からなる踊りは、荒れ果てた土地を切り拓いて実りある土地にし、平和で豊かな世代をつくるという意味が込められている。
かつて、新田開発に尽力した、この地の先人たちの不屈の精神を物語るかのようだ。
このほか、町内には、平成14年に9人の有志で発足した「亀田獅子舞保存会」があり、活動を続けている
獅子舞は、毎年ゴールデンウィーク頃に開催される「津軽富士見湖桜まつり」の開会式や、毎年8月中旬に開催される「水と火の祭典 つるたまつり」、その他、イベント会場などで見ることができる。